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路地裏の中年

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あの粘土屋は、何処へ行った?

 この間、ALWAYS3丁目の夕日を観たせいか、昔の光景って奴を思い出す。
 そこで、昭和の光景ってカテゴリーを作り、思い出せる(たまたま思い出した時に)光景なんかを綴ってみたいと思った。
 
 ということで、今回は粘土屋の思い出。
 「粘土屋」ってしてますかぁ?

 寅吉が小学生のころ、学校の前の公園に来ていた、「粘土屋」。
 ××屋っていうからって店を構えてるわけじゃない。
 公園の入り口当たりに、店を広げてる。地面に簡単なテーブルっていっても箱の上に板を置いたって感じの台に、石膏の型を並べて売っている。ある意味、テキ屋の一種かもしれない。
 この石膏の型にはいろいろあって、鉄腕アトム(絶対ライセンスなんて取ってないよなぁ。)から般若まで。鉄腕アトムが一番安く、いわば入門用。般若は一番高く、子供達の垂涎の的だ。
 その型に入れる粘土を売っている。しかも、ただ粘土を売るわけじゃないよ。
 
 じゃぁ、何をするかって?
 石膏の型を手に入れたら、これに粘土を入れて型を取る。
 これをヒビ割れなんか無いように、水なんかをつけながらきれいにしていく。
 この成型を終えたあとで着色の行程に入るんだ。
 この着色に使うのが色のついた粉。いろんな色があって、これも粘土屋が売っている。金・銀は他の色より割高だ。その色のついた粉は、無造作に新聞紙(藁半紙かもしれない)を切った包みで売られており、なんか昔の粉薬のような感じだった。
 これで、丁寧にかつ芸術的に色をつけていくんだ。
 
 そして見事完成したら、それを粘土屋に持っていく。
 粘土屋では、子供達から提出された粘土型を並べて品評会が始まる。
 1日に何度か催される品評会の審査員は、もちろん粘土屋のオヤジだ。
 並べられた着色された粘土の型を独断と偏見で点数を付けていく。

 点数は、切符くらいの大きさの固紙に数字がスタンプされたものだった。
 オヤジは、それを採点し終えた作品を潰した上で、それに刺していく。
 並べられた全作品に点数を刺し終えると品評会は終了だ。しゃれたコメントなんていうのは、一言もありゃしない。無造作に、淡々と刺し終える。
 しかし、ここで賢い子はすぐ気付くはずだ。
 高い点数をもらう作品ほど、その元の石膏型が高いってことを・・・・・。
 子供心に資本主義の矛盾を知らされるきっかけなるともいえるかも知れない。
 つまり、鉄腕アトムをいかに綺麗に仕上げようと、決して般若の石膏型で作った作品には叶わないのだ。
 オヤジは、腹の中で言っていたんだろう。
 「高い点数が欲しければ、高い石膏型を買いな!」って。

 だから、みんなあの般若の石膏型を欲しがった。
 ただし、当時の小遣いでどうこうなる金額じゃなかった。他に欲しいものもたくさんあった時代だ。そこに使える小遣いは、せいぜい鉄腕アトムくらいだ。
 でも、中には金持ちの坊ちゃんじゃないけど、般若の型持ってて、決してうまくないのに、毎回高得点をもらう奴がいたねぇ。

 小遣いで買えない場合は、その品評会で獲得した得点が使えることになっている。つまり、般若の型は、500点とか決まっていて、得点のキップを集めると希望の型と交換できるシステムだ。また、この得点で着色用の粉も買うことができた。
 そこで、庶民である寅吉のような子は、せっせと鉄腕アトムで精をだす。あの般若の型を目指して・・・・・。
 まこと、今の資本主義の縮図のようじゃないでしょうか。

 ただし、般若の型は500点だ。
 鉄腕アトムで出品しても獲得できる得点はどんなにうまくても2点止まり。(通常は1点だ。)500点集めるには、250回から500回の出品が必要とされる。
 粘土屋は、毎日は現れない。多分週2回くらいだったと思う。
 1年52週、週2で104回。フル出場しても、3年近く懸かる。
 その間に、子供達も成長し、興味は別物に移り忘れていってしまう。
 しかも、般若の型欲しさに得点を集めているから、途中で色粉にそれを使おうなんて考えない。粘土と色粉を買ってチャレンジを続けるんだ。
 今なら簡単に偽造できそうな得点のキップだったけど、当時そんなこと考える奴はいなかたもんなぁ。
 そして、般若まではいかなくても、そこそこの得点を貯めることができたころ、粘土屋は、姿を見せなくなる。いつしか、貯めた得点のキップのことなんか忘れ、別のものへ興味が移る。
 そうすると、粘土屋は再び現れる、新たなお客を求めて・・・。
 こうして、粘土屋に遊ばれる子供達は循環していった。
 子供の心理をうまくついた商売じゃないか。

 でも、ほんとに商売として成り立っていたかというと、よくわからない。
 だた、当時の子供達が何故か夢中になるものがそこには、あったと思う。
 (でも、この粘土屋に夢中になるのは、必ず男だったよねぇ。男は早くに、資本主義の矛盾を知る必要があったのか、ただのおバカさんだったのか・・・・)
 案外、あの粘土屋のオヤジも子供好きだったのかも知れないし・・・・・。
 当時僕らの公園での遊びのアクセントは、粘土屋と紙芝居屋が双璧だった。
 紙芝居屋は結構メジャーで今も多くの人が語り草にしているが、粘土屋はマイナーなのか、あまり語ってくれる人がいない。(それとも、下町特有のものだったのだろうか?)そうそう、型屋って呼んでた奴もいたっけ。
 
 でも、寅吉は現代のポイントなんかで客を釣る商売の原点をみるようで、この粘土屋がたまらなく懐かしく思い起こされる。
 忘れかけてたころ、ズボンのポッケに入れたままだった得点の切符が、そのまま洗濯されボロボロになって出てきた時の、ちょっとホロ苦い思い出。
 有効期限が切れたポイントに気付いた時の気持ちに近いと思いませんか?
 あの、粘土屋はその後、何処へいっって消えてしまったのだろうか。
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ALWAYS 三丁目の夕日(ネタバレあり)

 この映画、俺らの世代にとっちゃ反則でしょう。
 映像そのものが懐かしくもあり、最初の「東宝」のロゴ?が画面に出た時から、昔「ゴジラ」映画を見たことが思い起こされ・・・・・・。

 あの時代は、ああだったんだよ。
 冷蔵庫は、上に氷(といっても、氷屋さんがリヤカーで売りに来て、それをのこぎりで切った、枕サイズくらいのおおきさのやつだけど・・・)を入れるところがあって、それで冷やしていた木の扉のついたやつ。
 うちの家にも昔土間があって、そこにはその冷蔵庫があったのを覚えている。
 いつの間にか、電気冷蔵庫が普及し、氷屋さんのリヤカーも見かけなくなっていったけど・・・・。

 駄菓子屋も遊びの情報発信基地だったよね。
 でも、寅吉の駄菓子屋のイメージは、ババァがいないと。(ゴメンネ!でもみんなババァってよんでたんだよねぇ。)駄菓子屋を営んでいるのは必ず、ババァだったというイメージがある。
 寅吉の近所に駄菓子屋は2軒あった。
 「ハトヤ」と「裏の駄菓子屋」(みんなそう呼んでいたので、本当の名前は知らない。)だ。
 どちらも、メインはババァだ。
 「もんじゃ焼き」を知ったのも、「裏の駄菓子屋」が初めてだった。
 多分、保健所とかの登録なんかしてなかったんだろう、「おばちゃん、もんじゃいい?」って聞くと、こそこそと中の台所の居間みたいなところに上げてくれて、そこに鉄板のひいた台が1台。そこで子供達は、もんじゃを焼きながら、世間話などをして盛り上がる。なんせ、1卓しかないものだから、結構競争率が高かった覚えがある。
 あの、「裏の駄菓子屋」のおばちゃんも、「ハトヤ」のおばちゃんも、昔からず~っと、ババァだったけど、本当はいくつだったんだろう?(今をもって不明なんだよねぇ。)

 そうそう、家のすぐ側の交差点には都電のホームもあったよ。
 31番だったかな?三ノ輪から上野の方へ走るやつだった。
 当時は、都電とトロリーバス(国際劇場の前の国際通りを走っていた。)が身近な交通手段だった。
 汽車は憧れに近いものがあり(多分、遠くに連れてってくれる乗り物と思っていたのだろう。)、上野の山の陸橋に、下を走る汽車を見に、親に連れてってもらったものだ。
 あの時眺めた汽車に、「六ちゃん」達はのっていたんだろうなぁ・・・・。

 あのころのクリスマス。
 寅吉の枕元には、サンタ(両親)からのプレゼントと叔父さんが近所のお菓子屋さん(ハセガワっていったけかなぁ。)で買ってくれた菓子袋(長靴のじゃなくて、袋に入っていたんだ。)が置かれてたなぁ。あれが、叔父からのプレゼントと知ったのは、随分たってからだった。
 そうそう、当時のおもちゃ屋さんは、この日は終夜営業のようだった。
 大きな玩具店(トイザラスやデパート)なんてそんなになかった時代ですから、町のおもちゃ屋さんは、かきいれどきだったんだろう。その日まで、望みのプレゼントを明かさず、サンタへの手紙をしたためてた子供もいただろう。その日、子供が寝てからやっと望みの品がわかって、おもちゃ屋へ駆け込む親も多かったのではないだろうか。

 テレビの登場もこのころ。
 寅吉は、物心ついた時にはテレビが珍しい時代が終わっていたかもしれない。
 憧れはカラーテレビに移っていた。
 よく、テレビに3色(赤・青・黄の3段)のカバーを画面に掛け、カラーテレビを模してる家庭も多かった。
 寅吉は、カラーテレビを早くに買っていた友達の家によく見に行ったもんだ。たしか、「サンダーバード」と「ジャングル大帝」だったと思うよ。その時間が夕食時になるんで、夕食をご馳走になることも多かった。
 そう、「ジャングル大帝」を提供していたサンヨー電器のCMソングを今も覚えているよ。

 ♪家のテレビにゃ、色が無い。隣のテレビにゃ色がある。
  あらま、あらまとよく見たら、サンヨーカラーテレビ♪

 これで、カラーテレビが欲しいって思ったもんだ。

 この映画を観ていたら、子供のころの忘れかけてた光景が甦ってきたよ。
 確かに、豊かじゃなかったけれど、あの時の電球色に彩られた光景は、今のどこか冷たさを感じる蛍光灯の色の光景より、暖かみが感じられたことは確かかも知れない。
 
 寅吉は、あの「東京タワー」が完成した年に生まれた。

奥多摩紅葉めぐり

 この時期わが家(といっても妻と二人の間だけだが)は、恒例の紅葉狩りに出かける。
 場所は、奥多摩。我が家から車で青梅街道をひたすら走る。ドライブの一番の負担となる有料道路の料金もかからなく、ガソリン代だけで楽しめる、しごく経済的なドライブでもある。
 また、この紅葉狩りには、違った目的が二つある。

 そのひとつは、車をスタートさせて2時間。目的地の奥多摩湖にさしかかったところにある「のんき屋」で手打ち中華そばで昼食をとるのだ。ゆっくりめのAM8:00に起き、車をスタートさせたのがAM10:00を少し廻ったころ。「のんき屋」到着は、12:00を少し廻り、昼食時間にピッタリだ。

 のんき屋での一番のお勧めは、やはり手打ち中華そば。手打ちです、ってかんじの麺がいいんですよ。味はさっぱりめですが素朴な味わいで、ここに来ると食べずにいられない味です。
餃子もなかなかいけますよ。

 昼食を終えたらいよいよ紅葉狩りのスタート!
まずは、奥多摩湖に沿って走り、奥多摩周遊道路にでます。
 少し走ると「山のふるさと村」の標識がありますので、ここで一休み。ここからの景色がなかなか素晴らしいのと、空気が澄んでいてここが東京であることを忘れさせてくれます。

 「山のふるさと村」を後にして、奥多摩周遊道路を走らせます。
 途中、景色のいい場所に駐車場があります。ふるさと村を出てから最初の駐車場が「月夜見第一駐車場」になります。

 「月夜見第一駐車場」からは、奥多摩湖が一望できます。
 特に、この日のように天気に恵まれた時の景色は絶景です。奥多摩湖の水の色と紅葉のコントラストに空の色が混じり、総天然色っていうのは、こういうことをいうんだなぁ、と思わせてくれます。

 この駐車場を後にしたら、あとは適当に景色のいいところがあれば、その近くの駐車場に止めつつ、移ろう景色を見ながら、周遊道路を檜原ゲートへ向けて走らせます。
 ここに、もうひとつの目的地「山小屋」があります。そう、この紅葉狩りの別の目的のひとつは、ここで「すいとん」を食べることでした。

 ここで「すいとん」を食べることは、その年の台風の影響による周遊道路の通行止めがあった一昨年以外は完全に定番化しています。
 懐かしく、あたたかい「すいとん」の味は絶品です。

 山小屋で「すいとん」を食したら、この「奥多摩紅葉めぐり」の旅の目的はすべて果たしたことになります。
 時刻も夕方となり、日暮れが近づいてます。
 あとは、農産物の直売所などを覗きながら、「おやき」でも食べて(食べてばっかりみたいな気が・・・・)帰りましょう。
 さすがに、土曜日の帰り道は、渋滞もあり(この時期、工事も増えてきてるんですよ。)往路ほど順調に流れませんが、五日市街道を経て我が家まで約3時間のドライブです。
 同じ東京で、全然別の空気と景色を感じられる、この時期の「奥多摩紅葉めぐり」は、我が家の定番行事となっております。

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房 寅吉

房 寅吉

東京は下町 浅草生まれ、昔少年だった寅吉も中年の域に達してまいりました。

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